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沖縄の歴史と戦争 〜平和の琉歌を聴いて〜

先日生まれて初めて、沖縄に行ってきました。

その中で沖縄の歴史から多くを学ぶことができたので、ここでシェアさせていただきます。

それまでの沖縄のイメージは、夏、海、ビーチ、青い空、美ら海水族館みたいなイメージでした。

それが楽しみで沖縄に行きたいと思っていた時期もありますが、40代になるとそれ以外にも興味を持てるようになってきました。

その1つが、沖縄の歴史です。

目次       

  • 沖縄戦争
  • アメリカとの共存
  • 平和の琉歌

沖縄戦争       

今回の沖縄訪問では、仕事の合間に次の3つのところに行ってきました。

●ひめゆりの塔

1945年の沖縄戦で亡くなった沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒や教師のための慰霊碑です。

沖縄戦の翌年、両校で最も多くの犠牲者を出したガマ(鍾乳洞)の上に建てられました。

 

ここに行って感じたことは、戦争は悲惨であるということ。

争いごとはよくないという当たり前のことを、改めて実感しました。

特にこの沖縄戦では、兵士だけでなく多くの一般市民が巻き込まれました。

当時の動画や写真を見ると、本当に惨いものです。

 

今回見たものの中で印象的だったのは、高齢の女性が16歳の時に生き別れた同級生である親友の写真を今でも大切に持っていると話す動画でした。

「生きられても死んだとしても、ずっと一緒にいようね」と手を繋いでガマから出た瞬間に、爆弾によって手が離れてしまい、そのまま生き別れてしまったそうです。

そして、天国にいる親友が「生きているあなただけでも、平和のために頑張ってね」と言われているようだと話しているシーンを見て、涙が止まらなくなってしまいました。

●沖縄県平和祈念公園

悲惨な沖縄戦の事実と教訓を後世に正しく継承すると共に、平和のための学習、研究そして教育の拠点施設として活用されています。

そして、沖縄戦終結50周年を記念して1995年の式典の時に建てられた「平和の礎」には、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名が刻まれています。

 

そこにはなんと、敵国であるアメリカをはじめとした人の名前も刻まれているのです。

これを見た時に、沖縄県民の平和への強い意志を感じました。

そして、この式典に参加されたアメリカ人も涙を流していたそうです。

●海軍司令部壕

ここでは、日本海軍によって掘られた壕が当時のまま残っており、沖縄での戦争を今に伝える貴重な資料として整備、保存されています。

人手が足りない中で、約3,000名が鍬やつるはしといった道具のみで掘り続け、たった5ヶ月が完成させたのです。

 

アメリカ兵が55万人いる中で、日本兵はわずか11.8万人(陸軍10.8万人

+海軍1万人)だったのです。

武器もアメリカ兵が潤沢に銃を持っているのに対して、日本兵は槍だけで戦う状況でした。

そんな背景もあり、海軍(1万人)はわずか10日で全滅してしまったのです。

このように日本にとっては、初めから勝てるはずのない戦いが沖縄戦争だったのです。

そして人手も足りないため、訓練を受けていない一般市民も兵士として戦地に参加することになってしまったのです。

この海軍司令部壕の中では、兵士は「市民は戦わないんだから、食糧をよこせ」と言うようなこともあったと案内してくれた方が話してくれました。

私たちには想像し難い状況があったと思いますし、その現場にいない人が今になって評論するような発言はできないと感じました。

アメリカとの共存   

沖縄は、太平洋戦争後から沖縄返還に至るまでの27年もの間、アメリカに統治されていました。

1945年(昭和20年)の太平洋戦争において、沖縄は「国内最大の地上戦」と呼ばれる戦場となりました。

米軍は4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸後、瞬く間に島の北半分を制圧し、約3ヶ月に及ぶ激戦により県民の4人に1人が犠牲になり土地も荒廃しました。

沖縄戦後、GHQの指令により米軍政下となり、日本の施政権は停止、行政実体としての沖縄県は一旦消滅し、アメリカ合衆国による沖縄統治が始まります。(その期間が実に27年間)

1972年(昭和47年)に沖縄は日本に施政権が返還され、沖縄県が復活します。

一瞬にして、右側通行が左側通行に変わったそうです。

そしてご存じのように、米軍統治時代から続く基地問題や不発弾の問題、日米地位協定の問題は、今も県の主要な政治課題となっています。

 

一方で沖縄に行って現地の人に話を聞いて感じたことは、今はアメリカと敵対しているのではなく、共存しているということです。

アメリカ軍の人たちは、国のお金で生活できているので、高水準な生活が可能です。

そのため、その層をターゲットにしたマンションもたくさん存在しています。

現地の方はそのマンションを「外国人マンション」とも呼んでおり、家賃が数十万円するような物件もあるということです。

 

また北谷(ちゃたん)町という地には、観光客や駐留米軍関係者に人気のスポットであるアメリカンビレッジなどがあり、多くの地元県民や観光客が訪れています。

実際にその地に行ってみると、車から見ても外国人が多いのが印象的でした。

現在も4つの米軍関係施設があり、米軍基地が町の総面積の52.3%を占めています。

 

私が見る限りの印象ですが、アメリカに牛耳られているというよりは、アメリカと共存しているという印象でした。

実際に地元の方に話を聞くと、アメリカ兵の方と一緒にバーベキューをしたり、仲良く過ごしている方が多くいました。

 

過去にあれほどの戦争があったにも関わらず、なぜアメリカと共存できているのかという疑問を持って、現地のある会社の社長と話していると1つの言葉を教えてもらいました。

それは「イチャリバチョーデー」という言葉です。

この言葉には「会えばみんな兄弟」という意味があるそうです。

沖縄の方々には、他の地域の人にはない過去と経験があります。

そんな地域の人にこの言葉を教えてもらうと、おおらかで色々なことを受け入れる懐の深い沖縄の方の人柄をさらに実感できます。

1回行っただけでは、沖縄の一部を知っただけですが、また行ってみたいと思う場所でした。

平和の琉歌      

そんな沖縄のことを歌った歌があります。

それが、サザンオールスターズの「平和の琉歌」です。

これは、沖縄戦終結50周年を迎えた頃に発表された歌ですが、改めてその歌詞を読むと、それまでとは違った気持ちで聴き入っている自分がいました。

沖縄の「ネーネーズ」という音楽グループもカバーして、現地でも有名な歌ですが、ぜひ聴いてみてください。

本土の人間として責任を十分に感じつつも、沖縄に恒久的平和が訪れることを願うような歌詞をご覧ください。

平和の琉歌

作詞:桑田佳祐

作曲:桑田佳祐

 

この国が平和だと

誰が決めたの?

人の涙も渇かぬうちに

 

アメリカの傘の下

夢も見ました

民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

 

蒼いお月様が泣いております

忘れられないこともあります

 

愛を植えましょう この島へ

傷の癒えない 人々へ

語り継がれてゆくために

 

この国が平和だと

誰が決めたの?

汚れ我が身の罪ほろぼしに

 

人として生きるのを

何故に拒むの?

隣り合わせの軍人さんよ

 

蒼いお月様が泣いております

未だ終わらぬ過去があります

 

愛を植えましょう この島へ

歌を忘れぬ 人々へ

いつか花咲くその日まで