私は現在40代ですが、小学生の時に「道徳」という授業がありました。
これを読んでくれているあなたが何歳かは分かりませんが、どうでしたか?
「道徳」とは「社会生活を営む上で、一人一人が守るべき行為の基準」と辞書には書かれています。
また「自分の良心によって、善を行い、悪を行わないこと」とも書かれています。
要約すると「道徳」の授業は、人として正しい考え方を学ぶ時間であったかと思います。
では現代の学校教育においてはどうなのかと思い、子どもに時間割を見せてもらうと、小学校でも中学校でも「道徳」という授業を見つけることができました。
もちろん、時代の変化もあり、教え方は変わっていくのかもしれませんが、不変な教えが必要だと感じました。
不易流行という言葉があります。
これは「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものを取り入れていくこと」また「新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること」という意味になります。
そんなことを考えていると「正しい」という基準が分からなくなりそうです(笑)
しかしそれではいけません。
ここでは「道徳」を踏まえて、正論が常に正しい判断と言えるのかどうかを考えてみます。
目次
- 正論とは
- 正しい判断とは
- 最も大切なこと
正論とは
「正論」という言葉がありますが、その意味は何でしょうか?
辞書を引いてみると「道理にかなった、正しい意見や議論」と書かれています。
では「道理」とはどのような意味なのでしょうか?
こちらも辞書を引いてみると「正しい道筋や筋が通っている様」や「道徳的な正しさや納得できる因果関係」などと書かれています。
やはり「道徳」の授業は、必要だなと思ったりします。
しかし、この正論の基準も人それぞれです。
例えば「正しいあいさつ」とは、どのような行為でしょうか?
- 声に出してあいさつをする。
- 大きな声であいさつをする。
- 相手の目を見てあいさつをする。
- 笑顔であいさつをする。
- 一言添えてあいさつをする。
このように「正しいあいさつ」の基準は、人によって様々です。
しかし企業においては、正しい基準を合わせることが大切になってきます。
それが企業の共通目的に通じる部分になります。
正しい判断とは
では、正論は常に正しいのでしょうか?
正論とは「道理にかなった、正しい意見や議論」なので、ちょっと矛盾を感じるような問いかけになってしまいましたが、正論を言うことが常に正しい判断とは限らないのです。
例えばあなたの教え子が、大事な試合に臨もうとしているとします。
そして、その試合は「絶対に負けられない試合」だとします。
この時に「今日の試合は絶対に負けられない。大切な試合だぞ。だから、いつも以上に気合を入れて行け」と伝えたとしたら、どうでしょうか?
決して間違ってはいませんし、言い換えればこのコメントは正論です。
しかし、その伝え方が正しいかどうかは分かりません。
ひょっとしたら、先程のように伝えることで、教え子は萎縮してしまうかもしれませんし、負けられないという言葉を聞いて、負けることを想像してしまうかもしれません。
そんな時には「今日は大切な試合だけど、ここまでの練習を信じて、いつも通り自分の力を出し切っていこう」と伝えた方が良い結果に繋がるかもしれません。
つまり「正論」が道理にかなった正しい意見であったとしても、それをそのまま伝えることが正しい判断とは限らないのです。
もし「正論」を伝えることが上司や親の役目であったとしたら、そんな簡単な仕事はありません。
仕事においても家庭においても、人と接する上で大切なことは「正論」を理解した上で、どのような伝え方を選ぶかという正しい判断が大切なのです。
最も大切なこと
では、伝え方を考える際に正しい判断をするためには、何が大切なのでしょうか?
それは「相手の立場に立つ」ことです。
「相手のために考える」ことと「相手の立場に立つ」ことは全く異なりますので、詳しくはこちら「相手の立場に立って考える人と考えられない人」をご覧ください。
相手の負けん気を理解して伝える時もあれば、時には心配性の性格を考慮して伝える時もあると思います。
だから、伝え方の正しい判断は、相手によって決まるのです。
言い方を変えれば「正論」や「べき論」を口に出すことに大した意味はないのです。
「正論」や「べき論」を言うことは、知識を持った人や、頭の中で理解している人であれば、誰でもできることですが、コミュニケーション能力はそんなに単純ではありません。
だからこそ、常に「相手の立場に立って正しい判断をすること」が最も大切なことなのです。