2024年の幕開けは、誰もが予想しないものでした。
元旦の能登半島地震では多くの方が被災しましたが、改めてお見舞い申し上げます。
その一方で、人の繋がりや温かみを感じるような話も聞くことがありました。
そんなことを思っていると、私は1人の野球選手を思い出しました。
それは広島カープからメジャーリーグへ挑戦し、その後再び広島カープに戻って活躍をした、黒田博樹さんです。
勝手ながら、私なりに黒田博樹さんが凄いと思うエピソードをご紹介させていただきます。
目次
- 広島カープへ
- ドジャースへ
- ヤンキースへ
- 再び広島カープへ
- 2つのエピソード
広島カープへ
黒田博樹さんは、1975年に大阪で生まれた元プロ野球選手(投手/ピッチャー)です。
お父さんが元プロ野球選手ということもあり、小学時代から野球を始められました。
高校は名門である上宮高校の野球部に所属していましたが、レギュラーを奪うどころか、登板することも少ない3年間だったようです。
そして、4年かけて野球に白黒をつけるという思いで、セレクションを受けて専修大学に進学します。
ここではピッチャーとして成長を遂げ、3年生からは主力として活躍し、ストレートのスピードも150キロを超えるようになり、チームも東都1部リーグに昇格を果たします。
その頃からは、多くのプロ野球チームのスカウトが、練習や試合会場に訪れるようになります。
そして、どこの球団に行くのかと周囲が注目している中、黒田博樹さんは広島カープを逆指名したのです。
逆指名制度とは、ドラフト上位候補選手が希望球団に入団できる制度で1993年に導入され、2006年を最後に廃止されました。
ではなぜ黒田博樹さんが広島カープを選んだのかというと、それは東都1部リーグに昇格する前から唯一足を運んでくれていたのが、広島カープのスカウトマンだったからだそうです。
当時は、プロ野球チームのスカウトマンが学生に声をかけるのは禁止されていました。
しかし、いつも同じ人を見かけるなと思っていたところ、それが広島カープのスカウトマンだったのです。
黒田博樹さんの凄い所は、プロの世界に入る大事な球団選びにおいて、お金でも名誉でも条件でもなく、熱心な思いに応えることを最優先して決断されたことです。
広島カープに入団して1年目に6勝をあげますが、決して順風満帆であったわけではありません。
しかしその後は主力としてマウンドに立ち続け、5年連続で開幕投手を務めるなどチームのエースに成長しました。
そして選手が他の球団と自由に交渉ができる権利(FA権 / フリーエージェント権)を得ることができる年になりました。
FA権(フリーエージェント権)とは、所属チームとの契約を解消し、他チームと自由に契約を結ぶことができる権利のことをいいます。
一般的にこのFA権とは、実力のある選手が多くの球団と交渉を行う中で、より良い条件を獲得していくための手段として使われることが多いものです。
そのFA権を獲得できる前のシーズンとなる最後のマウンドで、ファンはスタンドから黒田博樹さんに思いを伝えたのです。
このメッセージは残留してほしいけれども、仮に他のチームへ行っても、応援し続けるよという思いのこもった横断幕かと思います。
それを受けて、そのシーズンオフに黒田博樹さんは、FA権を行使せずに、広島カープ残留を宣言したのです。
その時には「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」と発言しています。
黒田博樹さんの凄い所は、実力で評価されるプロの世界においても、ファンの気持ちを汲み、その思いに応えることを最優先して決断されたことです。
そしてもう1年広島カープでプレイした後、さらなる高みを目指し、メジャーリーグへの挑戦を決意するのです。
その記者会見で涙を流す黒田博樹さんの姿は、義理と人情を重んじる昭和男子の良いところが全て出ているように私は感じました。
ドジャースへ
そして、どこのメジャーリーグ球団に行くのかと注目されている中、ロサンゼルスドジャースから4年契約で年俸総額が50億円という、当時の日本人選手への評価としては破格の条件を提示されました。
交渉の場で、条件についてどうかと聞かれた黒田博樹さんは、4年契約という部分が少し引っかかるようなことを告げると、球団側は「では5年や6年でどうだ?」というやりとりがあったそうです。
一般的にメジャーリーグでは、少しでも長く活躍する場を保障してもらうためにも複数年契約を望み、さらに長い期間の複数年契約を勝ち取ることが、選手や代理人の腕の見せ所だと言われています。
今回の大谷選手(10年契約)や山本選手(12年契約)の契約年数を見ても、その一般的な流れが分かるかと思います。
そんな2人が、メジャーリーグの日本人選手としてのパイオニア的存在である野茂英雄さんが所属し、黒田博樹さんも所属した同じドジャースに行くことは、日本人として何か感慨深いものがあります。
さて、先ほどの交渉の交渉の場において、黒田博樹さんはなんと答えたのでしょうか?
なんと・・・「3年契約にしてほしい」と答えたのです。
「そんな選手は今まで見たこともない」と球団側が伝えると、黒田博樹さんは「メジャーで1球も投げていないのに、何年も実績を積んだ人より条件が良いのは納得ができない」と伝えたそうです。
そんな黒田博樹さんですが、その後3年間ドジャースで結果を残した後に、もう1年の契約を実力で勝ち取ることになります。
さらにその実績を買われ、シーズン途中には優勝を争うチームからオファーがありました。
一般的に優勝を争うチームからオファーがあることは、選手としてとても名誉なことであり、そのタイミングで移籍をする選手も多くいます。
そんなオファーのことを記者から聞かれると、黒田博樹さんは「興味ないな。行ったばかりのチームで、たとえ優勝しても素直には喜べない」と伝えたそうです。
そんな黒田博樹さんがFA権を取得できるようになった時に、キャッチボール相手であったカーショウ投手は黒田博樹さんにぜひ残ってほしいと伝えると、他のメンバーも同じコメントを伝えたそうです。
ちなみに黒田博樹さんとカーショウ投手は、ドジャースに入団した年が同じということもあり、年齢が13歳も違うにもかかわらず、お互いをリスペクトし、すぐに打ち解けていったそうです。
鳴り物入りのドラフト1位で入団したカーショウ投手は、当時から黒田博樹さんを慕っていて、プロとして多くのことを学んだと言います。
今ではメジャーリーグを代表する投手として200勝を超える勝ち星をあげ、現在も第一線で活躍をしています。
そんなやりとりがあった中で、黒田博樹さんはさらなる高みを目指すために移籍を決断します。
ヤンキースへ
移籍先は名門中の名門である、ニューヨークヤンキースです。
この移籍を決める前に、代理人から移籍の条件を聞かれた黒田博樹さんは「ドジャースとは違うリーグのチームにしたい」と伝えていたそうです。
そんな黒田博樹さんはニューヨークヤンキースから、当然のように複数年契約を提示されます。
しかし、単年契約の希望を伝え、実際に1年毎に契約を更新していきました。
その理由は、目の前の1年に勝負したいという思いと共に、古巣への恩返しを考えていたと言われています。
ヤンキースに移籍した最初の年にはキャリアハイとなる16勝をあげるなど、3年連続で10勝以上をあげ、期待通りの活躍をしていました。
そして、FA権を行使できるタイミングに他の球団が交渉を開始しました。
明らかに全盛期を過ぎた39歳の選手に、パドレスは年俸20億円を提示したと言われています。
どれだけアメリカの地で評価されていたかが分かる、黒田博樹さんの凄いエピソードです。
しかし、ここで黒田博樹さんが取った決断は、多くの人を驚かせました。
再び広島カープへ
その移籍先は、メジャーリーグのどの球団でもなく、年俸も20億円の5分の1とも言われる提示であった広島カープだったのです。
実に、8年ぶりとなる復帰を宣言したのです。
この時の衝撃を、私は今でも鮮明に覚えています。
個人的には、この決断が黒田博樹さんの最も凄いエピソードです。
一方で、年俸が下がったとはいえ4億円ももらえるのであればお金に困ることはないのかと思っていると、前年の年俸にかかる税金を考えると、通常の選手では選択できるものではないと報道されていました。
やはり黒田博樹さんは、常に人の思いに向き合う誠実な方なんだと感じ、改めて凄い人だと実感しました。
広島カープ復帰の1年目は40歳という年齢ながら11勝をあげ、しっかりと期待に応える活躍をしました。
そして翌年には、広島カープが25年ぶりとなるリーグ優勝を成し遂げたのです。
その時に男泣きする姿は、広島カープファンの恩返しを忘れずに選手生活を送ってきた姿でもありました。
そして、この年をもって黒田博樹さんは、黒田投手としての役割を終え、現役引退を発表したのです。
そして黒田投手がつけていた背番号「15」は、広島カープ史上3人目の永久欠番となりました。
2つのエピソード
私は黒田博樹さんを広島カープ時代から知っていますが、強く興味を持つようになったのは、ヤンキース時代からです。
あの名門チームで活躍する人はどんな人なのかと遡って調べていくと、ますますファンになってしまいました。
そんな黒田博樹さんの、黒田投手として活躍していた頃の凄いエピソードをご紹介します。
素敵なエピソードはたくさんありますが、ここでは2つだけご紹介させていただきます。
1つ目は、ドジャース時代のエピソードです。
黒田投手がある試合で投手交代となった後に、ダグアウトの裏でものに当たって大暴れをしたことがありました。
翌日落ち着いてから監督にその理由を聞かれると、黒田投手は次のように答えました。
「僕はマウンドを戦場だと思っています。ですが、試合の途中にダグアウトから自分のメカニック(投球における技術的なこと)のことを言われたので頭に血がのぼってしまいました。戦場にいる兵士に、その場で鉄砲の撃ち方を教える人なんていないだろうと思ってカッとなって暴れてしまいました。すみません」
正直、試合中に技術的なアドバイスをされることに、私は何の違和感もありません。
しかし、マウンドを戦場だと思って試合に臨んでいる人には、そうではないんだと。
当たり前ですが、私とは圧倒的に違うギャップを感じた黒田博樹さんの凄いエピソードです。
2つ目は、ヤンキース時代のエピソードです。
試合が終盤に差し掛かった時に、黒田投手が投じた1球を主審はボールと判定しました。
その判定に納得のいかなかった黒田投手は、その気持ちをジェスチャーで表現します。
結局その後そのバッターに打たれ、マウンドを降りる(投手交代)ことになってしまいました。
ベンチへ戻る途中に主審と話していると、珍しくベンチに戻る歩みを止め、主審に大声で叫ぶ姿がテレビに映っていました。
その理由を試合後に聞かれた黒田投手は、次のように答えました。
主審が「間違ったのは1球だけだろう」と言ったので、我慢ができませんでした。こっちはその1球のために、色々な準備をしてデータも分析して投げているので、我慢ができませんでした。
1球の重みとは、それまでに積み重ねてきたものの重みであること。
だから、その瞬間瞬間に思いがあること。
黒田博樹さんはプロ野球の世界で「今」を積み上げてこられましたが、どんな世界でも「今」を大切にすることはできます。
少しでも黒田博樹さんに近づけられるように頑張ろうという、心地よい刺激をいただきました。
こちらもお勧めなので、興味のある方はぜひご覧ください。
永久保存版 黒田博樹 200勝の軌跡 The Best 10 games – 黒田博樹をめぐる10の物語 – (ヨシモトブックス)