先日「あるべき論」という言葉について、考える機会がありました。
「あるべき論」とは「こうあるべきだ」という考え方です。
組織づくりにおいては、目先の問題点だけに目を向けて行動していいても、決して良い組織はつくれません。
仮に問題点を100個抜粋しそれを全て解決したとしても、理想の組織に近づいたかどうかは分かりません。
過去の組織と比べて良くなったということに過ぎないのです。
そんな時に、理想とする「あるべき論」は大切になってきます。
目次
- 組織づくりにおいて
- 横から虚栄心
- 2つのあるべき論
- さいごに
組織づくりにおいて
組織づくりにおいて「あるべき論」はとても大切な考え方です。
例えば組織づくりにおいて次のような図をイメージします。
理想と現状のギャップが課題であり、理想がなければこのギャップが生まれません。
組織づくりにおいて、理想なきところに課題なしということです。
組織づくりに例えていうならば、現状だけに目を向けて、問題点を100個あげたとして、その100個の問題点を全てひっくり返すことができても、良い組織にはならないということです。
なぜならば、良い組織の定義が明確になっていないからです。
ただ単に、その問題点が問題でなくなるというだけのことです。
理想を明確にして、現状とのギャップを見据えることで課題が明確になります。そうすることによって問題点の重要度が明確になります。
そして課題のプライオリティー(優先順位)を見極め、対策を検討し行動に移していきます。これはとても基本的な思考であると共にとても重要な思考です。
横から虚栄心
次に、組織づくりではなく、人というキーワードで「あるべき論」を考えてみるとどうでしょうか?
考え方は同じです。「自分はこうあるべき」、または「自分はこうありたい」という理想を持っている人はとても魅力的です。「ただの日常」を生きるのではなく、「意識下の日常」を生きるイメージです。
しかし時として、次のようになることもあります。
理想を強く持っている一方で、現状の自分を受け入れられずにいる場合です。
さらにそれを周りの人に悟られたくないと思い、自分はもっと理想に近い人であると思って欲しいというプライドがあるとしたら・・・。
次のようなイメージです。
すると本来は、大きい三角形の範囲で考えれば良いのですが、小さい三角形で悩もうとします。それが見栄の自分になってしまいます。
すると本当の現状である自分と、見栄で作られた自分とのギャップで、新たな悩みが発生します。誰でも多かれ少なかれこういう感情はあると思います。
しかし、これが行き過ぎると精神の破綻を引き起こしてしまう可能性もあります。
承認欲求の強い人などは、このような傾向に陥りがちであり、要注意です。これが今回の考えるきっかけでした。
2つのあるべき論
さて、次のようなパターンはどうでしょうか?
複数で話し合う際に「あるべき論」が異なる場合です。このような状況で自分の「あるべき論」を他人に強要すると、おそらく嫌われます(笑)
この「あるべき論」が異なるパターンはよくあります。
例えば・・・世代が異なる場合。
「昔はこうだった」「私はこうやって習ってきた」だから「こうあるべき」という場合です。
ここでいう「昔」がいつなのかということで「あるべき論」も様々です。
「昔」が1960年の人もいれば、1980年の人もいれば、2000年の人もいた場合には「あるべき論」が異なっていても不思議ではありません。
例えば・・・時代認識が異なる場合。
同じ年齢であっても、時代の認識が異なる場合です。
- 「ゲームは遊び」だから、ダメ。自分が小さい頃もこう言われていたから。
- 「ゲームは目に悪い」から、たくさんやったらダメ。今の時代では医者もそのように証明しているから。
- 「ゲームは成長産業」だから、どんどんやったほうがいい。数年後にはオリンピック競技にもなる予定だし、これからの時代では必要だから。
例えば・・・地域が異なる場合。
同じ年齢であっても、地域によって認識が異なる場合です。
- エスカレーターは、右を空けて〜。東京でもどこでもそうでしょ!?
- エスカレーターは、左を空けてや〜。大阪では当たり前や〜。
さいごに
こんな時は、どうしたら良いのでしょうか?
それはお互いの理想である「あるべき論」が異なっているという前提に立ってコミュニケーションをとることです。
それだけのことではありますが、それがなかなかできないものです。(私もその1人です)
このように「あるべき論」を自分で持っていることは大切であり、人生の指針となり、その人の魅力にも繋がっていきます。
しかし、その捉え方や伝え方を間違ってしまうと、大きな落とし穴が待っているので気をつけたいものです。