母親は、偉大だと思っています。
私は男性ですが、その偉大さを死ぬまで本当の意味で理解できないと思っています。
ここでいう母親というのは、「私の」という意味ではなく、子をもつすべての母親という意味です。
では、なぜ母親が偉大だと感じるかというと、それはたくさんのやるべきことがある中で、それを実行しているからです。
昭和、平成、令和と時代が変わる中で、共働きやリモートワークなどの働き方の変化や、それに伴う家事の分担など、様々な変化があると思います。
その変化の中で、母親のやるべきことが変わってきましたが、少し前のいわゆる専業主婦という母親は、次のようなことを日常の中でしてきてくれました。
料理
- 献立作成
- 食材の買い出し
- 調理
- 後片付け
掃除
- 部屋の掃除
- お風呂の掃除
- トイレの掃除
- 洗面所の掃除
- 水回りの掃除
- ゴミ出し
洗濯
- 洗濯機を回す
- 洗濯物を干す
- 洗濯物をたたむ
- 洗濯物の収納
- (場合によっては)アイロンがけ
メンテナンス
- 排水口のゴミ取り
- 家電のフィルター掃除
- 各種書類や郵便物の整理と破棄
乳幼児期の育児
- 授乳
- 離乳食作り
- オムツ替え
- 寝かしつけ
- 夜泣き対応
- 公園への連れ出し
- 怪我や誤飲の防止(常に目を離せない)
学童期以降の育児
- 幼稚園・保育園や学校の送り迎え
- お弁当作り
- 宿題のチェック
- 習い事の送迎
- 保護者会やPTA活動への参加
他にも挙げればキリがありません。
その中で、さらに働くということをしている母親がいます。
私は18歳から一人暮らしをして、このようなことを一通りやってきた経験がありますが、世の中の母親がやっていることとは、対象人数も含めて深さが全く違います。
では何が違うかというと、それは「自分のために」やっているのか、それとも「人のために」もしくは「人の喜びのために」やっているかという大きな目的の違いです。
そんな偉大な母親の中で、先日1人の母親のことが紹介されていました。
その母親は、子どものために子どもへの深い愛情のもとに、「私はこういう母親でいよう」や「こんな母親になろう」と一生懸命日々を生きていました。
まさに母親としての「べき論」を持ち、自分の意志で生きていました。
このような「べき論」を持っている人の中で、1つの分岐点があります。
それは「できていること」に目を向けるのか、それとも「できていないこと」に目を向けるかという違いです。
例えば、やるべきことが10あった時に、できていることが3だとします。
ある人は「3まではできている」と捉えますが、一方で「3までしかできていない」と考える人もいます。
事実は「10のうち3まではできていて、残りの7はできていない」という1つの現象しかありません。
ちなみに、ここで紹介されていた母親は、後者の「3までしかできていない」という捉え方をしていました。
その結果、自分を責め続け悩んでいました。
この状態が続くと、人は光の見えない世界にいると感じるようになり、人によっては鬱状態になってしまうかもしれません。
しかし、こんな母親に救いの言葉が訪れました。
それは「あなたは完璧な母親を目指しているかもしれませんが、あなたの子どもはそれを望んでいません」という言葉でした。
子どもは、親からの愛情を望んでいて、すべてのことを完璧にこなしてくれていないということに対する不満の優先順位は決して高くないのです。
この言葉に救われた母親は、視点が変わりました。
つまり、今までは「3までしかできていない」と考えていた思考が「3まではとりあえずできている」と捉えるようになったのです。
このように、自分の指針となるような「べき論」を持つことはとても尊いことです。
しかしその「べき論」をどのように捉え、そして相手の立場に立った思考がさらに大切になるのです。
決して「べき論」は、自分や周囲の人を苦しめるためにあるのではないのです。
「べき論」については、ぜひこちら「べき論は無能の証明」もご覧ください。
そして、母親がご健在の方は、今のうちにぜひこちらもご覧ください。

